商社マンの誕生
2012年8月の「ナルクいちょうの会」機関紙から。ブログ・前ぺージの城村さんと同時期にエルセレーノ紅梅町で暮らし、同じ大学に留学していたワンくんのお話です。
『梅雨時には珍しく、台風が日本列島を駆け抜けた頃、「エルセレーノ紅梅町」にも珍しい人が現れた。この建物が出来た年に、ここの住人だったワンくんだ。
12年前の5月、彼は就職活動中だった。「どういう会社に入りたいの?」と訊くと「商社のМS社かМB社」という返事。「МB社にしたら…?」と私。
彼はМB社を受け順調に進んだが、最終面接で落ちた。何とも残念だった。長年勤めた社の役員室あたりが脳裏に浮かんだ。(大阪の支店長室に日参したら?)と言いそうになった時、ワンくんが「もう一度、大学の先輩のМB社〇〇部長に会ってきます。」と言った。そうして大阪支店(現在は関西支社)の三人の取締役の方たちが面接して下さることになった。特例に違いなかった。
その面接の前日、彼は「自信がありません」と、しきりに言うのだが「あなたが生まれてからこれまでに得た経験はМB社にも十分貢献できるものだと私は思う。背筋を伸ばして自信を持ってお話してきなさい」などと言って私は背中を押した。
面接から帰って来た彼を夕方、マンションの前庭で出迎えた。「どうだった?」と訊くと「20分の面接だったけどわからない・・・」と言葉少なだった。取締役3人の方が、合計1時間を彼に下さったこと自体大したことで、最終面接までの彼の評価が優秀だったからに他ならない。
翌日、ワンくんから電話で「今、内定の連絡が携帯にありました。・・・ありがとうございました・・・」あとは言葉にならない。私も「よかった!おめでとう!よかった・・・」もらい泣きの涙が溢れ出た。
この町から出て11年、パリで出逢った日本人女性との結婚までは知っていたけれど、子供が2人できたらしい。長年の無沙汰を詫びて「これからは大阪への出張の度に寄ります」と言う。そして一緒に来阪した同僚との夕食を約束しているから、と町角を曲がるまで振り返り、振り返りしながら、夕闇の中へ消えて行った。』
その後、出張で大阪へ来たワンくんと何回か食事をし、我が家でもありあわせ料理を肴に私が卒業した会社の昨今の様子を聞かせてもらいました。
ボランティアグループの機関紙に、“異国他郷”と題して寄稿もしてくれました。
学生時代から日本語は流暢に話し、見た目も細面の日本人にもよくありそうな優しい顔をしている人なので、名前を聞かないと中国人と気付かないワンくん、書くのは長い間苦手だったようです。
しかし、会社の上司に徹底的に鍛えられたそうでその苦労話を縷々述べていますが、厳しい上司の温かさも身に染みて感じているようです。
成長したんだなぁと思うと同時に、周囲の人たちに愛されてきたんだな、と思いました。
彼が入社した年、競争率は100倍、100人に1人が受かったそうで、今は400倍だそうです。
今年彼は、入社15年目なのでした。私は「エルセレーノ紅梅町」を仕事場にして16年目です。
12年前の5月、彼は就職活動中だった。「どういう会社に入りたいの?」と訊くと「商社のМS社かМB社」という返事。「МB社にしたら…?」と私。
彼はМB社を受け順調に進んだが、最終面接で落ちた。何とも残念だった。長年勤めた社の役員室あたりが脳裏に浮かんだ。(大阪の支店長室に日参したら?)と言いそうになった時、ワンくんが「もう一度、大学の先輩のМB社〇〇部長に会ってきます。」と言った。そうして大阪支店(現在は関西支社)の三人の取締役の方たちが面接して下さることになった。特例に違いなかった。
その面接の前日、彼は「自信がありません」と、しきりに言うのだが「あなたが生まれてからこれまでに得た経験はМB社にも十分貢献できるものだと私は思う。背筋を伸ばして自信を持ってお話してきなさい」などと言って私は背中を押した。
採用内定の通知をもらったあと、 あるイベントに参加して「くらがり峠」まで 結構な距離を歩きました~今ならとても~~ |
面接から帰って来た彼を夕方、マンションの前庭で出迎えた。「どうだった?」と訊くと「20分の面接だったけどわからない・・・」と言葉少なだった。取締役3人の方が、合計1時間を彼に下さったこと自体大したことで、最終面接までの彼の評価が優秀だったからに他ならない。
翌日、ワンくんから電話で「今、内定の連絡が携帯にありました。・・・ありがとうございました・・・」あとは言葉にならない。私も「よかった!おめでとう!よかった・・・」もらい泣きの涙が溢れ出た。
この町から出て11年、パリで出逢った日本人女性との結婚までは知っていたけれど、子供が2人できたらしい。長年の無沙汰を詫びて「これからは大阪への出張の度に寄ります」と言う。そして一緒に来阪した同僚との夕食を約束しているから、と町角を曲がるまで振り返り、振り返りしながら、夕闇の中へ消えて行った。』
その後、出張で大阪へ来たワンくんと何回か食事をし、我が家でもありあわせ料理を肴に私が卒業した会社の昨今の様子を聞かせてもらいました。
ボランティアグループの機関紙に、“異国他郷”と題して寄稿もしてくれました。
学生時代から日本語は流暢に話し、見た目も細面の日本人にもよくありそうな優しい顔をしている人なので、名前を聞かないと中国人と気付かないワンくん、書くのは長い間苦手だったようです。
しかし、会社の上司に徹底的に鍛えられたそうでその苦労話を縷々述べていますが、厳しい上司の温かさも身に染みて感じているようです。
成長したんだなぁと思うと同時に、周囲の人たちに愛されてきたんだな、と思いました。
彼が入社した年、競争率は100倍、100人に1人が受かったそうで、今は400倍だそうです。
今年彼は、入社15年目なのでした。私は「エルセレーノ紅梅町」を仕事場にして16年目です。
M物産懐かしいですね。私は同社の関連会社に入社したのですが、入社3年目に逆出向で本社営業部で鉄鋼(特に軌条など形鋼を扱うチーム)の販売担当で一年間勉強させて戴き、相当“顔”も売らさせてもらい、後々の会社活動に大いに役立ちましたよ。。。
返信削除古いお話しですが。仕事も一流、遊びも一流、銀座にも通いましたしクラブは軟式野球部に入ってました。当時本店は新橋のNHKのとなりにあり「鉄鋼部」は確か2階でした、渋谷のアパートから銀座線で通勤してました。。。思い出しますね『色々と。。。』結婚前の青春時代・・・いい事も悪い事も!?
当時の先輩はまだ物産の関連会社の「会長さん」です。(^^)
入社3年目、というと25才くらいですか~?花の25才ですねぇ~
返信削除大阪支店から本店(現在は関西支社から本社ですが)への転勤は“栄転”と言われていて、男性の目線はやはり本店を向いていましたねぇ。。。女性は地元の人が多いので、そういう風潮に反発していましたが・・・
それでも旅行のついでなどに、よく本店へ遊びに行きました。転勤して行った職場の男性たちや、全国から集まって女性対象で研修があり、その時に友達になった女性のところへ訪ねて行きました。
廻りきれないで帰阪すると「どうして僕のとこへ来なかったの!?本店へ来たらしいじゃないの~!」と職場へ電話があり、ひたすら謝ることもありました
今の本社は千代田区大手町ですが、その前は港区西新橋にありました。今度また建て直すそうなんですよ。ワンくんも言っていましたし、その後会社から情報入りました。
ご先輩がまだ現役で「会長さん」という重責を担ってらっしゃるのはすごいですね。