難民の連鎖
これはシリア内戦で破壊された街
ウクライナ侵攻が止みません。テレビに映る街々はただ文字通りの灰色一色です。 人々が「地下室にいて無事だった」と言っているのを聞いて(良かった・・・)と安堵しますが、国境が地続き故の警戒感から、家を建てる時地下室も作っておくのが伝統なのかな、と思っている処です。しかし、水や食料は不十分でしょうしシャワーが使えるのかどうか等、衛生状態が良くないことを想像しているだけで胸が塞がる思いです。
ウクライナの人達はいま世界中に安息の地を求めて、人口の一割近くの人々が国を離れヨーロッパや遠く日本にまで、つてを頼って不安を抱えながら一人で、或いは数人の家族などと共にやって来ています。
日本政府や自治体そして国民も、今や国を挙げてウクライナから避難してきた人々を支えようとしています。それはそれでいいと思いますが、事実として難民はウクライナからだけではありません。
私の住むこの街には、阪神淡路大震災の翌年アフリカのある大国からやってきた二人の若者がいました。この国も長年の内戦に国民が苦しんできた国でした。
ヤジちゃん(通称は他にあり、これは私だけの呼び名)は学生運動のリーダーだったので、そのまま国にいると投獄されたと言い、役所で高位だったお父さんの力で国を脱出して来たのでした。 もう一人の”ハマダ(元々はムハンマド‐イスラム圏ではとても多い名)ちゃん”は農園経営者の息子さんで、「稼いで自分の農園を買うんだ」と言っていました。
その後ヤジちゃんは東京の英会話学校に職を得、ハマダちゃんは日本で得られなかった新しい仕事を求めてオランダへ旅立ちました。オランダはその頃から難民に優しい、暮らしやすい国だということでした。ヤジちゃんは東京へ移ってからも毎日のように私に電話してきていました。心細かったのでしょう。
私の息子はシリアの大学を卒業して日本の大学院に留学するために来日しましたが、”アラブの春”で中東の政治状況が不安定な中、ビザ取得・飛行機の乗り換えなどでも故国を離れるのは困難を伴うことだったと言います。日本でもシリア難民は大勢の人がいて、私も少し心配しながら息子のボランティアや取材の様子を見守って来ました。
それらの人々の中に、昨年家族(妻と子供4人)を呼び寄せた男性がいて、家を探すのを手伝った息子を断食月の一夜、晩餐に招いて下さったそうでした。幸せそうな家族の写真を送って貰いました。一番上の男の子は息子が教鞭をとる大学を今春受験したそうですが、残念ながら受かりませんでした。「残念だったねぇ、惜しかったねぇ❣」と悔しがる私に、息子は「うちの大学、変なんだよ」と大学のせいにするのでした。。。
過日取材の申し込みのあった放送局から質問内容が届いたのですが、
返信削除先方の訊きたいことと、こちらの話したいことに食い違いがあり
インタビューにお答えするのは難しそうな様子です。。。