現地見学会・・・大山崎
11月最後の土曜日、「河陽(かや)離宮・水無瀬(みなせ)離宮を訪ねる」と題した現地見学会が催されました。当日の朝、受付に行くと最後の申込者の欄に私の名前があり、「行けるかどうか迷った挙句、申し込みました!」という状況がそのまんま、そんなところにも出ていて笑ってしまいました。
「河陽」とは中国風の名付け方で“淀川の北”と言うほどの意味だそうですが、中国の大河になぞらえたのでしょうね。その頃の先進国の中国(当時は南宋)への憧れが感じられます。
37名と伝わってきた当日の参加者でしたが、大学生と思われる女性二人がグンと若くて、あとの人たちは「大、大人」と「大、大、大人」ともいうべき男・女性たちでした。
私たちは先ず、大山崎歴史資料館の館長さんに引率されて、離宮八幡宮へ行き、過日友人がしてくれたような説明を聞き、あと山崎駅家(うまや、交通の手段であった馬を繋ぎ、休ませ、荷造り、荷下ろしなどする施設だったのでしょうか)を訪ねました。山崎駅家はその後、嵯峨天皇の河陽離宮、さらに山城国府へと転用されたことが文献で確認されているようです。
一旦、大山崎町歴史資料館へ戻り、昼食のお弁当を頂きました。こまごまと色々な食材を使った(しかし添加物・保存料は使っていませんよ、というような)美味しい、やさしい神経の行き届いたようなお弁当で、周りの皆さんも喜んでお箸を進めておられました。
お昼からは、お腹の準備も整ったからでしょうか、強行軍でした~。「水無瀬の滝」を目指してどこまでも、東大寺の荘園であった“東大寺村”や“広瀬村”と言われたところを、足の速い歴史資料館の館長さんの後を追って歩いて歩いて行くのでした~。「水無瀬の滝」は名神高速道路を建設時、あわや切り崩されそうになったところを、かろうじて残されたらしい、後鳥羽上皇も御幸されたらしい、いわくも有難味もある由緒ある滝ですが、「ひょっとして水が枯れているかも・・・」との館長さんのお話に、歩きに歩いた後なのでみんなギョッとしたようでしたが無事細やかながら滝の水は元気に落ちていました。
水無瀬神宮は隠岐の島で崩御された後鳥羽上皇をはじめ、土御門天皇・順徳天皇をおまつりされています。上皇の近臣、藤原信成・親成親子が上皇のご遺志を受けて水無瀬の地に御影堂を建立し、後鳥羽上皇の霊を弔いました。15世紀に水無瀬宮となりましたがこの神宮の敷地は広く、周辺の地は下御所の跡地と考えられる、ということでした。
この日は9㎞ほど歩き、みなさんお元気でしたが、私は久々の長距離で若干疲労困憊気味でありました~~(@_@;) 大山崎って広いんですねぇ…と実感しました。さすが“天王山の麓”でした^^
「河陽」とは中国風の名付け方で“淀川の北”と言うほどの意味だそうですが、中国の大河になぞらえたのでしょうね。その頃の先進国の中国(当時は南宋)への憧れが感じられます。
37名と伝わってきた当日の参加者でしたが、大学生と思われる女性二人がグンと若くて、あとの人たちは「大、大人」と「大、大、大人」ともいうべき男・女性たちでした。
水無瀬の滝 |
一旦、大山崎町歴史資料館へ戻り、昼食のお弁当を頂きました。こまごまと色々な食材を使った(しかし添加物・保存料は使っていませんよ、というような)美味しい、やさしい神経の行き届いたようなお弁当で、周りの皆さんも喜んでお箸を進めておられました。
お昼からは、お腹の準備も整ったからでしょうか、強行軍でした~。「水無瀬の滝」を目指してどこまでも、東大寺の荘園であった“東大寺村”や“広瀬村”と言われたところを、足の速い歴史資料館の館長さんの後を追って歩いて歩いて行くのでした~。「水無瀬の滝」は名神高速道路を建設時、あわや切り崩されそうになったところを、かろうじて残されたらしい、後鳥羽上皇も御幸されたらしい、いわくも有難味もある由緒ある滝ですが、「ひょっとして水が枯れているかも・・・」との館長さんのお話に、歩きに歩いた後なのでみんなギョッとしたようでしたが無事細やかながら滝の水は元気に落ちていました。
東大寺荘園跡、この川の左側が東大寺の農地、 右側が民家のあったところ |
水無瀬神宮は隠岐の島で崩御された後鳥羽上皇をはじめ、土御門天皇・順徳天皇をおまつりされています。上皇の近臣、藤原信成・親成親子が上皇のご遺志を受けて水無瀬の地に御影堂を建立し、後鳥羽上皇の霊を弔いました。15世紀に水無瀬宮となりましたがこの神宮の敷地は広く、周辺の地は下御所の跡地と考えられる、ということでした。
この日は9㎞ほど歩き、みなさんお元気でしたが、私は久々の長距離で若干疲労困憊気味でありました~~(@_@;) 大山崎って広いんですねぇ…と実感しました。さすが“天王山の麓”でした^^
水無瀬神宮 |
水無瀬神宮境内にある 「水無瀬の名水」取水所 |
コメント
コメントを投稿