父のことなど

明日告別式なので、女性も利用しておられた美容室の先生と一緒に参列することになりました。
そのご主人に逢うとよく父を想い出します。平成3年に私の父は81歳で亡くなりました。それまで悲しいことを色々経験してきたつもりでしたが、親を亡くした悲しみはまったく異質のものでした。(こんなに悲しいことは今まで無かった)と深い悲哀の底に打ち沈んだ感がありました。葬儀の日には弟の肩を借りなければ立っていることが出来ませんでした。その時、夫ではなく弟でなければならなかった・・・
後日、父の書き遺したものを読みました。遺書めいたものではなく自分史的なもので、幼い時からの記憶を辿ってどのように過ごしてきた人生だったのかを整理して記したものでした。
父は、挿絵のような絵をよく描いていました。どちらかと言えば無口な人でその分、文章を書くのは好きだったように思います。遺した文書は双方を駆使したものでした。
大体のことは折々に直接聞いていましたが、明治43年生まれの人だけにその話には隔世の感がありました。父は船場の生まれで、生家は足袋のコハゼを発案したとかで製造販売を行い、全国へ向けて毎朝出荷するのをお店の柱にもたれて眺めていたそうです。
我が家の山茶花(咲き始めた頃) |
みんな空襲で焼けて何も残らなかったんじゃないでしょうか・・・。祖父は空襲の時、町会長をしていて皆さんを避難させた後、自分たちは逃げる時間のゆとりがなく一番近くのお蔵に飛び込んだそうです。でもその高温になったお蔵の中で祖母は息絶えたのでした。祖父は大丈夫だったのですが…祖母は昔の女優さんの浪花千栄子さんみたいな話し方をする人だった、とよく母が話していました。船場の言葉遣いです。姉のことは“とうちゃん(長女のお嬢ちゃん)” 私のことは“いとちゃん(お嬢ちゃん)”と船場にいる頃呼ばれていたそうです。父は引っ越しても本籍は船場に置いたままにしていましたので、私も結婚するまで見たこともなかった船場が本籍地でした。(その後、住所を頼りに行ってみましたが様変わりしているようでした。)
ご近所に“往年の名女優”と言われる山田五十鈴さんが住んでいらして幼友達だったそうでした。他の子供たちも一緒に走り回って遊んでいたそうで、父はよく「自分の名前を云えば思い出すだろう」と言っていたものでした。
母のことはよく思い出します。日常生活で母に教わったことが多いのでつい思い出すのでしょうが、父のことは母ほど思い出さないのは多分“ニーズがない”のです~ねぇ・・・ゴメンナサイ
今日は早くも「立冬」ですね。お父上長命でしたね、私の父も明治生まれでしたが64歳で亡くなりました。(^o^;「船場」「丼池」と言えば大阪の商いの中心部ですね。
返信削除特に繊維関係、家具の問屋町が有って~「船場、丼池」という名前からして、運河か何か池が…合ったのでしょうか。(?_?;船場言葉は大阪商人の独特な「言い回し」が特徴的ですね。「まいどー」「おおきに」「どうでっか」「ぼちぼちですわ」等々。!?
船場と言えば山崎豊子さんを思い浮かべます。彼女はたしか本町の「相愛女子」から「京都女子大」を出て、毎日新聞に入社で井上靖さんとご一緒だったようですね。(^^)お父さんは船場の「ぼん」やったのですね。ビックリポンですわ。。。(^_-)-☆
お父様、64歳とは今の感覚ではいささか早過ぎて残念に思われますね。
削除「船場」は道頓堀に近いからでしょうか・・・「どんぶりの池」とはこれいかに?と言いたいところですが・・・訊いておけばよかったです。
父が60歳を少し過ぎた頃、昔番頭さんだった男性が「ぼんぼん、お元気だっか?」と言って訪ねて来られたそうです。私は会社だったのですが、両親ともに在宅だったようで母が「60歳過ぎて、“ぼんぼん”ってねぇ」と
可笑しがって帰宅した私に話してくれました。ホントにね、ビックリポンですよ!