アメリカのお父さん


最近は手書きによる長い手紙のやりとりは、一般的ではなくなったのでは?
           


きのう、戸棚の上を整理しようと手を伸ばしたところ、A4版の入る大きさの封筒がどっしりと両手に乗っかって来ました。中身は「Dear daughter 」で始まる手紙、その他です。


友人のアメリカ人のパパはパワフルで、私へのこの手紙も便せん5枚にびっしりボールペンの手書きで書かれ、5枚目の裏にも表から溢れ出したパワーが文字となって流れているようです。 

封筒内にはその手紙に加えて新聞の切り抜きや、地域情報紙(彼の素敵な息子たちのことも掲載されています)、通信販売のパンフレット等、アメリカの文化を伝えたい…という思いが手紙の行間や記事に書き加えられた文字群に見て取れます。その頃の日本より進んでいる感じがありました。             

彼のパワフルさは子供の多さにも表れていて、男の子が4,5人、女の子が3,4人で合計は8人だったと思います。私のことは9人目だと彼の娘Car(愛称)が言っていましたね。         私を「My daughter」と気軽に一人追加するのもイタリア系アメリカ人だからか・・・。



三十代の半ば頃から、私は親をそれまで3年がかりで説得して、というより諦めさせて親の家を出て独立しました。子供がずーっと親と同居していても、趣味やセンスが親と微妙に違ってくるものだと思います。家具や、壁に飾る絵一つでも、日々使う食器にしても、自分の好みが出来てきます。旅行先で買い求めた色々なものを只収納しておくのではなく、自分の生活の中で使いたい、見ていたい、ものなのです。自分のやり方で生活を実現したいのです。

ということで、自分の手持ち資金と会社から借り入れたものを合わせてcashで大阪市に隣接するベッドタウンのマンションを手に入れました。訪ねてきた友人に、「どんな気持ち?」と訊かれて「とてもlovely^^」と言ったのを憶えていますが、満足していました。



その後しばらくして、英会話学校の先生に頼まれて3LDKのひと部屋をアメリカ人女性に貸すことになりました。それがCarでした。1年経ったところで事情があって彼女は一旦国に帰りました。盛大にさよならパーティーを催し、共通の友人たちを招いて名残を惜しみました。私には得難い貴重な経験だったし、その頃がやはり一番英会話が良く出来た時期でしたネ。

その後Carは日本に帰って来、日本人と結婚しました。パパは私が結婚した後も手紙をくれ、電話番号を教えてということだったのですが、新婚の早朝に電話をかけて来ました。電話の向こうでママが「時差を考えなさいよ。ごめんね、Sachiko!」と言っているのが聞こえてくるのでした。「大丈夫!」と私も彼女に言ったのですが届いたかな?



  年末の「サントリー1万人の第九」の2回目の年に、私は同じ部の女性5,6人を誘って
  参加しました。その直前に来日し会場へ私の他の友人と応援に来てくれたCar。
  その時の写真を使ってこれをプレゼントしてくれたのでした。

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