アフリカの青年たち
その年1995年は阪神淡路大震災が新年早々起こりました。大阪は震度3で、この辺りはそれほどの被害はなく、我が家も幸い倉庫の棚から瓶が1本落ちて割れたくらいで済んだのですが、社会全般から言えば、それは大変な年でした。
その印象深い年に出会ったせいか、記憶に残る2人の青年がいます。どちらも20台後半のアフリカ人でした。この街の古いアパートに住んでいて、我が家のワンちゃんを可愛がってくれたので、主人も私もワンチャンを通して親しくなったのでした。
どちらも北アフリカのスーダン人ですが、28歳くらいだったM君は文字通りブラック、26歳のY君は自称チョコレート、でした。Y君が"チョコレート"と言うのは、お父さんがスーダン人、お母さんはエジプト人のハーフで、やはり肌の色や顔立ちが周囲のスーダン人とは違うのでした。どちらもハンサムで気持ちのいい青年でした。
日本に来た経緯はそれぞれで、M君は一旗揚げたくて日本に来たようでした。「お金を貯めて将来は国で農場を買いたい」と言っていました。主に建築現場で働いていて、「雨が降ると休みなんだ」と言っていました。その傍らYくんと一緒に英語も教えていたのでした。
ある時、それまで働いていた現場が終わったので次を探していて、なかなか無いと相談して来ました。主人が常々「サポートしてやればいい」と言っていたので「うちで新聞広告を見ようか」と言うことになりました。我が家の2階への階段を上がる時、長いスリムな脚で2段ずつ上がっていたのはなかなか印象的でした。1段ずつではもどかしかったのでしょうね。
新聞広告から「これはどうかな?」と思うのがあり、私が通訳と保証人を引き受けるつもりで、車で梅田の会社の事務所へ行きました。いろいろ話しましたが結局、その会社は彼の日本語のレベルでは、現場で何かあった時、危険を知らせる仲間の言葉が理解できないのでは、と危惧されて採用されませんでした。
それからも自分で仕事を探していましたが、「見つからない・・・」と言い、その内「オランダへ行くことにした」と打ち明けられました。「オランダは移民が大勢いて、友達も行ってるから」と言うのでした。「そう…オランダなら良いかもしれないわね」と私も言い、彼の為にはその方がいいかもと思いました。
主人は彼らとほぼ日本語だけで交友していたのですが、M君と相性がよく、より好ましく思っていました。イスラム圏にとても多い“ムハンマド”と言う名のM君、周囲の友人は“ハマッド”みたいに呼び、主人と私は「浜田ちゃん」と親しみを込めて呼んでいました(^_-)-☆
彼は出発する前に、一冊の英文の小説を差し出し「これ、日本に来る時、飛行機の中で読んでいた本だけど、あなたにあげる」と私に手渡しました。今も本棚に並んでいます、いくらか茶色く変色して・・・
オランダの街がテレビで映し出されるとつい「浜田ちゃん」が歩いてないかしら、など思って見入ってしまいます。25年前の彼の姿を探している自分に気付き苦笑する私です^^
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