母のこと
2月もあと1週間ほどで弥生3月~早いですね~~。
3月と言うと私には“母の月”です。母の生まれ月が3月なので・・・
4人姉弟のそれぞれが出来ることをして寄り添った最晩年でしたが、母がお世話になっていた施設は車で10分程だったので、私は週に2,3回訪ねていました。週末の訪問時には、車椅子を押して近くの大きなスーパーへ行き、一緒にその日のおやつや果物を選び、喫茶コーナーで味わう事も楽しみの一つでした。
そうした日の母の別の喜びは、お店のお客さんを眺め、幼い子供に声をかけること、人とのコミュニケーションなのでした。生活するのに人の手を借りるようになっても母は尚、社会の一員であることを望み、普通に話をしたがることに私は気づきました。
その10年ほど前、2人でオーストラリアへ旅行する為に関空まで来た時、母は自分の足で歩きながら「ここへ来るまで私はドキドキしていたけど、今は浮き浮きしているよ」と79才にして初めての海外旅行を前に言ってのけたのでした。
その旅からの帰途、リムジンの前のシートの背にハワイ旅行の広告を見つけ「ネ、次はこれね!」。 生きいきとした声で、母はクタクタに疲れた私の頭に楔を差し、それはそれから2年後のハワイ行きにつながったのでした。
最晩年の母は、時に「私はすることが何もないの・・・」と言うのでした。そのたびに「いいやないの。今まで頑張ってきたんやから、ゆっくりしたらいいやないの・・・」と言うしかありませんでした。何がしたい、ということは口にしなくなっていましたが、これまで通りに家事をしたり手仕事や花作りをして、家族や周りの人たちのために役に立ちたいと願っていたと思います。母の人生で一番退屈な日々を過ごしていたに違いありません。
その頃のある日、私は施設を辞去しようとしていました。すると、職員さんと見送りに来ていた母が、乗用車に乗りたいと車椅子で腰を浮かさんばかりに足を踏ん張りました。私も乗り物好きの母を久しぶりにドライブに誘いたいと思っていましたが、自分の意思をこんなに強く表す母にびっくりしました。梅雨時というのにカラカラに乾いた街を母と一緒にあてもなくひた走りながら、私の心の中は集中豪雨でした。
昨日留学生の一人のお誕生日だったので 「“紙”ケーキ」を手作りしました |
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