「本家 柴藤」のこと

一昨日、鰻料理の老舗、「本家 柴藤(しばとう)」さんへ行きました。ボランティア団体「ナルク いちょうの会」の機関紙ではユニークな会員さんをインタビューして記事にしています。

昭和の終り頃まで淀屋橋の畔に屋形船で商う鰻料理屋さんがありました。勤めていた会社が中之島にあったので(今もあるのですが)、その屋形船でのお店を(なんと風雅なお店の佇まいなんだろう)と思いながら、通りがかりに見ていました。

今、そのお店のホームページには創業300年と記されています。享保年間の創業で、将軍徳川吉宗公の意向を受け、もともと川魚商だったが大阪城の近くで鰻料理店を開業したとあります。その後将軍家より屋形船を拝領し、昭和の時代に至ったのです。すごいことですねぇ。

「ナルク いちょうの会」の機関紙にお店の広告を見つけてから、その広告はさりげないながら私にとっては懐かしい屋形船の思い出と重なり、特別なものでした。高麗橋に移って営業しておられる「本家柴藤」さんのおかみさんにインタビューに伺いました。

まむし(間蒸し)と う巻き かば焼きの酢の物
肝吸いなど
24才で嫁いで若おかみになられて40年、お姑さんの跡継ぎとして立派に勤めて来られたことが言葉の端々から読み取れました。活発な方でした。そして七変化もすると云われたのですが、スーパーウーマンなのでした。お店の色々なところで活躍しておられるようです。

おかみさんのお話の中からエピソードを一つご紹介しますね。
『バブルの頃、世間では何でもよく売れるので、粗製濫造の風潮もありました。昔から使っている溜まり醤油でさえそういう時期があり、私は名古屋のその溜まりメーカーへ行き「何とかなりませんか」と工場長さんに相談しました。「味見してください」と持ってこられた、溜まりの入った5枚の小皿の匂いを嗅ぎ、美味しいと思う順番に置いていくと工場長さんは驚かれました。まさに工場側で評価される順番に私が置いていたからです。』

光って見づらいですが
“創業享保年間”
とあります
何代にも亘って顧客を魅了し続けるのは単に「暖簾」だけではないことを知りました。各代の店主・おかみの方たちが、自分が店を興す「初代」との意気込みを持ってお店の経営に当たってこられたことが、連綿と300年の歴史を綴ってこられた所以だと思いました。

お話を伺う一週間ほど前に友人と高麗橋の近くでお茶をしたのですが、その前にお店でお料理を頂きました。(これが享保以来の洗練された味なんだな)と感動しながらお箸を運びました。美味しかったです~^^





コメント

  1. とうとう柴籐にいかれましたか。鰻といえば私は”竹葉亭”がすぐ頭に浮かぶのですが・・・中ノ島といえば古い和風建築のお店が有ったのをご存知でしょうね。確か今はマンションに姿を変えてしまって、その趣は残念ながら有りません。
    もともと東京からの暖簾分けとかで大阪にも竹葉亭があちこちにあると、当時女将さんにお聞きしたことが有ります。江戸前で柔らかい鰻丼と肝吸いが定番で懐かしい味でした。
    ”柴籐”さんも良くいきました、お客さんの接待が全盛の時代でしたので、よく使わせて戴きました。
    確か「蘭」とかと云う二段重ねのうな重が有って、挑戦したことが有ります。。。笑い。
    昨日は日本鰻の規制枠の話がTVで報道されていましたが残念ですね。
    京都へちょくちょくお出かけとか!?、やはり京都は和食の本場ですから、お店も多いのですが嵐山の「廣川」 とか、江戸川グループの祇をんの「う」などおいして雰囲気のあるお店も有りますのでまたご利用ください。
    いい記事が書けそうですね、楽しいお話有難うございます。

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  2. 昔、土用の丑の日に友達と会社の近くのお店へ鰻を食べに行きました。竹葉亭だったかもしれませんが、長く待ったこと、お店の古かったこと、くらいしか憶えていないのが残念です。古い和風建築のお店…あ、あの時のあのお店だったのかも…と瞬時に想い出しました。古い記憶です。

    接待文化の花咲くころ、その中にどっぷり浸っておられたご様子…そうでしたねぇ、私も少しつまみ食いさせてもらったことがあります。経理部でしたが、担当していた営業部の部長さんが、決算が終わると“ご苦労さん”とお寿司屋さんなどへ連れて行って下さったのは部長接待費の一部だったと思います。嬉しかったですよ~^^

    昨日は江坂まで行って、やはり機関紙に広告を出していただいている建装工業(株)さん
    の関西支店長さんにインタビューしてきました。東京スカイツリーの塗装などもされたのですが、マンションのリニューアルが業績の80%を占めるという、日本でトップクラスの塗装工事会社です。こちらも徳川幕府開闢以来と云いますから400年を超えています。幕府の漆塗装を任されておられたようで禄高30人扶持だったと伝わっているそうです。でも明治36年を会社創業の時としておられます。こちらも機関紙に紹介記事を書きますが、できたらブログでもご紹介しますね。

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